島の人と、長く話したわけではありません。
それでも、
短い会話が、なぜか心に残っています。
高松でうどんをすすっていた朝、隣のおばあちゃんの「男木島、ええよ」という一言が旅の背中を押してくれた。
猫が暮らし、アートが息づき、坂道の路地が迷路みたいに続く小さな島。
歩くたびに“暮らしと旅の境界”が曖昧になっていくような、不思議な感覚があった。
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朝のフェリーに飛び乗った理由
高松港で立ち食いうどんを食べていたときだった。隣のおばあちゃんが「男木島、ええよ」って、誰にともなくつぶやいたんだ。
その一言が、なぜか胸に引っかかった。
もともと瀬戸内の島々をゆるく巡るつもりだったけれど、具体的な予定は決めていなくて。朝からどこへ行こうか迷っていた私にとって、その言葉は合図みたいなものだった。うどんを急いで流し込んで、フェリー乗り場へ走った。
チケットを買って、階段を駆け上がって、滑り込むようにして乗船。息が切れていた。なんでこんなに焦ったんだろう。まるで、行かなきゃいけない気がしたみたいに。
フェリーの甲板に出ると、潮の匂いがした。塩辛くて、少し生臭くて、でもそれが海なんだって実感させてくれる匂い。風が強くて、髪がばさばさになった。でも構わなかった。誰も私のことなんて見ていないし、そもそも誰かの視線を気にしながら旅をするのは、もうやめようと決めていた。
40分の船旅。長いようで、短い。
波に揺られながら、私は手すりにもたれて海を眺めていた。灰色の海。冬の瀬戸内は、夏の写真で見るようなキラキラした青じゃなかった。でも、この色の方が好きかもしれない。飾らない感じがして。
港に降り立って、すぐに迷子になった
男木島の港は、思っていたより小さかった。
いや、小さいというより、こぢんまりしていて、優しい感じ。港の建物が白くて近未来的で、瀬戸内国際芸術祭の作品だって後で知った。「男木島の魂」っていうタイトルらしい。屋根が波みたいにうねっていて、中に入ると天井から光が差し込んで、不思議な影ができていた。
フェリーを降りた観光客たちは、地図を片手にさっさと坂を登り始めた。みんな、ちゃんと下調べしてきているんだろうな。私はスマホの充電を節約したくて、地図アプリもあまり開かないつもりでいた。なんとなく、道に迷うことも旅の一部だって思っていたから。
港を出てすぐの場所に、猫がいた。
三毛猫。丸まって寝ていた。近づいても起きなかった。この島の猫たちは、人を怖がらないんだ。そう聞いてはいたけれど、本当にそうだった。私はしゃがみこんで、しばらく眺めていた。寝息まで聞こえそうなくらい、静かだった。
「写真、撮らないの?」
後ろから声をかけられて、振り返った。同じくらいの年齢の女性が、笑いながら立っていた。
「撮ろうと思ったんですけど、なんか起こしちゃいそうで」
「わかる。私も最初そうだった」
そう言って、彼女は坂道の方を指さした。
「あの坂、登ると集落があるよ。迷路みたいで面白いから」
ありがとうございます、とお礼を言って、私も坂道を登り始めた。
坂と路地と、猫たちの居場所
男木島の集落は、坂だらけだった。
急な石段を登って、曲がって、また登って。息が上がる。冬なのに汗ばんできた。でも、疲れるっていうより、体が目覚めていく感覚だった。都会にいると、こんなふうに坂を登ることなんてないから。
路地が細い。すれ違うのがやっとくらいの幅しかなくて、両側の家の壁に手が届きそうなくらい。古い木造の家が並んでいて、壁の塗装が剥がれていたり、窓が閉まったままだったり。人が住んでいるのかどうか、わからない家もあった。
でも、洗濯物が干してある家もあって。風にゆれる白いシャツを見て、ああ、ここで誰かが生活しているんだって思った。当たり前のことなんだけど、観光地としてじゃなくて、生活の場所としての島を感じた瞬間だった。
そして、猫。
本当にたくさんいた。塀の上、階段の途中、家の軒先。どこにでもいた。茶トラ、黒猫、白黒、キジトラ。みんな、それぞれの居場所を持っているみたいだった。
ある黒猫は、私が近づいても逃げなかった。それどころか、すり寄ってきた。細い体。毛並みはそんなに良くなかったけれど、目がきれいだった。ゴールドの目。
「お腹すいてるの?」
話しかけたら、ニャアと鳴いた。
ごめん、何も持ってないんだ。そう言うと、黒猫はしばらく私を見つめてから、ゆっくりと路地の奥へ消えていった。後ろ姿が、少し寂しそうに見えた。気のせいかもしれないけれど。
アートと日常が溶け合う場所
路地を歩いていると、突然、カラフルな壁画が現れたりする。
古い家の壁に、鮮やかな絵が描かれていて、思わず立ち止まってしまう。これも芸術祭の作品なのか、それとも誰かが勝手に描いたものなのか、わからない。でも、そのわからなさが良かった。
アートと生活の境界が、ここでは曖昧だった。
空き家を利用した作品があって、中に入ると薄暗くて、目が慣れるまで何も見えなかった。少しずつ見えてくる。古い家具、壁に貼られた写真、天井から吊るされた何か。作品なのか、もともとあったものなのか、判別がつかない。
そういえば、アートって何だろう。
美術館にあるものだけがアートじゃないよな、って思った。この島の路地そのものが、猫たちの居場所そのものが、もうアートなんじゃないかって。
坂を登りきったところに、小さな広場があった。というか、広場と呼べるほど広くはなくて、ちょっと開けた場所、くらいの感じ。そこにベンチがあって、おじいさんが座っていた。
「こんにちは」
挨拶をすると、おじいさんはゆっくりと顔を上げた。
「どこから来たん?」
「東京です」
「遠いとこから来たなあ。猫、見に来たんか」
「それもありますけど、なんとなく、ふらっと」
おじいさんは笑った。歯が何本か抜けていた。
「ふらっと、か。ええな、そういうの」
そう言って、おじいさんは海の方を指さした。
「あそこから見る夕日が、きれいやで。まだ時間あるやろうけど」
ありがとうございます、と言って、私はベンチの端に座らせてもらった。おじいさんは特に何も話さなかった。私も話さなかった。ただ、一緒に海を眺めていた。
風が吹いて、木の葉が揺れる音がした。遠くで犬が吠えていた。猫が一匹、広場を横切って、また路地へ消えていった。
時間が、ゆっくり流れていた。
小さな食堂での出会い
お腹が空いた。
時計を見ると、もう午後1時を過ぎていた。朝、高松で食べたうどん以来、何も食べていなかった。でも、この島に食堂なんてあるんだろうか。不安になって、歩いている地元の人に聞いてみた。
「食堂、ありますか?」
「ああ、坂下りたとこに一軒あるよ。今日、やってるかな」
やってるかな、って。そういう不確実さも、島らしいのかもしれない。
教えてもらった方向へ歩いて、小さな食堂を見つけた。看板も小さくて、見逃しそうだった。引き戸を開けると、カランカランと鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
奥から女性が出てきた。50代くらいだろうか。エプロンをつけていて、笑顔が優しかった。
店内には、テーブルが三つだけ。先客が一組いた。カップルで、地図を広げながら何か話していた。
「何がありますか?」
「今日はね、魚の煮付けと、タコ飯と、あとうどんくらいかな」
「じゃあ、タコ飯お願いします」
「はいよ」
女性は奥へ戻っていった。厨房から、包丁の音が聞こえてきた。トントントン。リズミカルな音。
待っている間、窓の外を眺めていた。路地が見えた。猫が通った。また別の猫が通った。この島、本当に猫だらけだな。
「お待たせ」
運ばれてきたタコ飯は、思っていたより量があった。タコがごろごろ入っていて、ご飯に味が染みていて、美味しそうな匂いがした。
一口食べた。
美味しかった。すごく、美味しかった。
タコが柔らかくて、噛むと旨味が広がって、ご飯の甘みと合わさって。シンプルなんだけど、丁寧に作られているのがわかった。
「美味しいです」
思わず声に出していた。
「ありがとう。今朝、獲れたタコやからね」
女性は嬉しそうに笑った。
食べながら、女性と少し話した。この島で生まれ育ったこと。若い頃は島を出たこと。でも、戻ってきたこと。今は、この食堂と、畑と、猫たちと暮らしていること。
「猫、多いですね」
「多いよー。餌あげてる人もおるし、観光客も可愛がってくれるし。でもね、冬は大変やと思うよ、猫たちも」
そうか、冬。
私は観光客として、数時間だけこの島にいる。でも、猫たちはここで冬を越す。寒い夜も、雨の日も。
なんだか、申し訳ないような気持ちになった。
灯台への道で考えたこと
食堂を出て、灯台を目指すことにした。
地図を見ると、島の反対側にあるらしい。歩いて30分くらいだろうか。特に予定もないし、体も動かしたかったから、歩くことにした。
集落を抜けると、道は舗装されているけれど車はほとんど通らなかった。両側に木が茂っていて、トンネルみたいになっている場所もあった。日陰に入ると、急に冷えた。冬なんだって、改めて思った。
歩きながら、いろんなことを考えた。
なんで私、ここにいるんだろう、とか。
仕事を辞めて、貯金を崩しながら旅をしている今の自分は、正しいんだろうか、とか。
答えなんて出ないことを、ぐるぐる考えてしまう。それでも、足は前に進んでいた。
途中、小さな神社があった。鳥居をくぐって、石段を登った。誰もいなかった。お賽銭を入れて、手を合わせた。何をお願いしたらいいのかわからなくて、とりあえず「ありがとうございます」とだけ言った。
神社の境内から、海が見えた。広くて、灰色で、でも美しかった。
ああ、来てよかったな。
そう思った。理由はわからないけれど、そう思った。
灯台で出会った猫
灯台に着いた。
白い灯台。思っていたより小さかった。でも、海を見下ろす場所に立っていて、堂々としていた。
灯台の周りを歩いていると、また猫がいた。
白い猫。片目が潰れていた。毛並みもボロボロで、痩せていた。でも、こちらをじっと見ていた。
私は近づいた。逃げなかった。
「こんにちは」
話しかけた。猫は何も言わなかった。当たり前だけど。
しゃがんで、手を伸ばした。猫は少し警戒したけれど、逃げなかった。そっと頭を撫でた。ざらざらした毛の感触。でも、温かかった。
猫は目を細めた。
この猫、ここでどうやって生きているんだろう。餌は? 寒い夜は? 誰かが面倒を見ているんだろうか。それとも、一匹で。
胸が痛くなった。
私には何もできない。旅人だから。今日だけの関係だから。明日には、もう会えないから。
でも、今、この瞬間だけは。
私はしばらく、その猫を撫で続けた。風が強くて、髪が顔にかかった。でも構わなかった。猫は、じっとしていた。
「元気でね」
最後にそう言って、立ち上がった。猫は座ったまま、私を見送ってくれた。
振り返らないようにして、歩き出した。振り返ったら、泣いてしまいそうだったから。
夕暮れの港で
灯台から戻る道は、行きよりも早く感じた。
集落を抜けて、港へ戻った。次のフェリーまで、まだ時間があった。港の建物の中に入って、ベンチに座った。
疲れていた。足が痛かった。でも、心地よい疲れだった。
港の外では、猫が数匹、固まって寝ていた。寒いから、くっついているんだろう。その姿が、愛おしかった。
そういえば、おじいさんが言っていた夕日。
もうすぐ沈む時間だった。私は外に出て、堤防の方へ歩いた。
空が、オレンジ色に染まり始めていた。
海も、オレンジ色だった。
夕日が、ゆっくりと沈んでいく。
周りには誰もいなかった。私だけ。いや、猫が一匹、隣にいた。一緒に夕日を見ているみたいだった。
きれいだな。
声に出さずに、心の中でつぶやいた。
この景色を、誰かと共有したいような、でも一人で見ていたいような、不思議な気持ちだった。
太陽が水平線に沈むまで、私はずっと立っていた。猫も、ずっと隣にいた。
空の色が、オレンジから紫に変わって、やがて暗くなっていった。
フェリーの中で思ったこと
帰りのフェリーは、行きよりも空いていた。
甲板に出ると、寒かった。でも、中にいたくなかった。海を見ていたかった。
島が、遠ざかっていく。
灯りが、ぽつぽつと見えた。あの集落のどこかで、あの猫たちが、今夜も過ごすんだろう。あの白い猫も、灯台のそばで。
私は何をしに、あの島へ行ったんだろう。
猫を見に? アートを見に? それとも、ただ逃げたかっただけ?
わからない。
でも、何か大切なものを、受け取った気がした。
それが何なのか、言葉にはできないけれど。
島の人たちの優しさ、猫たちの存在、夕日の美しさ、路地の静けさ、タコ飯の味、全部が混ざり合って、私の中に残っている。
旅って、こういうことなのかもしれない。
答えを見つけるためじゃなくて、何かを受け取るため。それが何なのか、すぐにはわからなくても。いつか、ふとした瞬間に、ああ、あのときのあれだ、って思い出すような。
フェリーが高松港に着いた。
降りて、振り返った。もう島は見えなかった。暗い海があるだけだった。
でも、確かにあそこに、島があって、猫たちがいて、人々が暮らしている。
また会いに行ける場所
ホテルに戻って、シャワーを浴びた。
鏡を見たら、日焼けしていた。冬なのに。風に吹かれすぎて、肌がカサカサだった。でも、なんだか生きてるって感じがした。
ベッドに横になって、今日のことを思い返した。
朝、うどん屋で聞いた「男木島、ええよ」っていう言葉。あのおばあちゃんの言う通りだった。本当に、良かった。
スマホで写真を見返した。猫の写真ばかりだった。路地の写真、海の写真、夕日の写真。どれも、その場の空気まで写っているわけじゃないけれど、見ると思い出せた。風の音、潮の匂い、猫の体温。
きっと、また行く。
そう思った。
季節が変わったら、また行きたい。春の男木島、夏の男木島、秋の男木島。それぞれ違う顔を見せてくれるんだろう。
あの白い猫は、元気にしているだろうか。会えるだろうか。
会えなくても、いい。どこかで生きていてくれたら、それでいい。
旅は、出会いと別れの繰り返しだ。でも、別れたからって、終わりじゃない。心の中に、ずっと残っていく。
男木島は、私にとって、そういう場所になった。
猫と人とアートの島。
でも、それだけじゃない。
もっと言葉にできない何かがある、島。
また会いに行ける場所があるって、いいな。
そう思いながら、私は眠りについた。窓の外では、高松の街の灯りが瞬いていた。でも、私の心は、まだあの島にあった。
灰色の海と、細い路地と、猫たちの瞳と。
またね、男木島。
男木島は、猫との距離、人の営み、アートの気配がすべて自然に混ざり合う不思議な島でした。
坂道を登るたびに風景が変わり、猫たちがふと隣に座ってくる。そんな偶然の連続が心をほぐしてくれる。
旅というより、“暮らしの隙間に入り込ませてもらった一日”のような時間でした。
また違う季節にも歩いてみたくなる、そんな場所です。
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