この記事は、何もしない時間を大切にしたい人に向けて、
実体験をもとに書いた、静かなひとり旅の記録です。
時計を見なくなったのは、
島に着いてからしばらく経ってからでした。
何かをしているわけでもないのに、
時間だけが、静かに過ぎていきます。
旅に出たのに、
「今日は何もしなくていい」と思えた瞬間がありました。
予定も、目的も、成果もいらない。
ただ、そこにいるだけでよかった時間です。
特別な理由があったわけじゃない。ただ、なんとなく「海を見たい」と思った。それだけ。
生口島を選んだのも、偶然に近い。
地図を眺めていたら、なんだか名前の響きがやさしくて。「いくちじま」って、口に出すとちょっとあたたかい。そう感じたから、ここにしようと思った。
ひとり旅って、こういう選び方でいいんだと思う。
誰かに説明する必要もないし、理由を求められることもない。気まぐれと直感だけで、行き先を決めていい。
📍前回の記事【男木島】猫とアートに癒される瀬戸内の楽園|はこちら
橋を渡るということ
生口島へ渡る橋は、生口橋という。
バスの中から見上げると、思っていたより高い。アーチを描いて、空に向かって伸びている。
橋を渡るときって、なんだか特別な気持ちになる。
ここから、別の場所へ行くんだっていう境界線を、はっきりと感じられるから。陸続きなのに、島に「渡る」っていう感覚がある。
バスの窓を少しだけ開けてみた。
潮の匂いと、風の音が一緒に入ってくる。髪が少し乱れた。ああ、海に来たんだなって、体が理解する瞬間だった。
橋を渡り終えて、島に入る。
景色が変わったわけじゃないのに、空気が違う気がした。もっと、ゆっくりしていいよって言われているような。そんな錯覚。
「瀬戸田港」で降りた。
小さなバス停に、私ひとり。運転手さんが「気をつけてね」と声をかけてくれた。それだけで、少しうれしくなった。
耕三寺、それから
島に来たら、まず耕三寺に行こうと決めていた。
カラフルなお寺、というイメージだけを頼りに。
歩いて十分ほど。商店街のような通りを抜けると、突然、派手な山門が現れた。
朱色と金色。思わず「わあ」と声が出た。誰もいない路地で、ひとりで驚いている自分がちょっとおかしかった。
拝観料を払って中に入る。
境内は思っていたより広くて、いくつもの建物が並んでいる。どれも色鮮やかで、ここが本当に日本なのか、一瞬わからなくなるような感覚があった。
でも、派手なだけじゃない。
ひとつひとつの建物に、丁寧な装飾が施されている。龍の彫刻、花の透かし彫り、細やかな彩色。これを作った人の、執念のようなものを感じた。
「母のために建てたお寺なんですよ」
不意に、声をかけられた。
振り返ると、白髪のおじいさんが立っていた。お寺の関係者なのか、ボランティアガイドなのか。優しい目をしていた。
「お母さんのため、ですか」
私が聞き返すと、おじいさんは頷いた。
「耕三寺耕三という実業家が、亡くなった母を偲んで建てたんです。すごいでしょう。母への愛が、こんな形になるなんて」
母への愛。
その言葉が、胸にすとんと落ちた。
私は母とうまくいっていないわけじゃない。ただ、最近は連絡も減って、会う回数も少なくなった。それが大人になるってことだと思っていたけれど、もしかしたら、それだけじゃないのかもしれない。
「あの、縁結びにもご利益があるって聞いたんですけど」
私は話題を変えるように尋ねた。
「ああ、それは『未来心の丘』のほうかな。ここから少し上がったところにあるんですよ。白い大理石の庭園でね、若い人たちがよく写真を撮りに来るんです」
おじいさんが指差した方向に、階段が続いていた。
白い丘で、出会ったもの
階段を上がる。
石段は思ったより急で、息が切れた。運動不足を実感する。でも、その分、景色が開けていくのがわかった。
「未来心の丘」は、本当に白かった。
大理石で作られた彫刻や建造物が、青い空の下に広がっている。まるで、地中海のどこかに迷い込んだみたいだった。
誰もいない。
平日の午後だからか、貸し切り状態だった。
白い石の上を歩く。
足音が、こつこつと響く。靴底から伝わる大理石の硬さと、照り返す太陽の熱。風が吹くと、潮の匂いがまた届いた。
ここに、縁結びの言い伝えがあるらしい。
どういう縁なのかはわからないけれど、恋愛だけじゃなくて、人と人、場所と人、過去と未来。いろんな縁が、ここで結ばれるような気がした。
丘の端まで歩いて、海を見下ろす。
瀬戸内海が、キラキラと光っていた。島がいくつも浮かんでいる。あの島にも、誰かの暮らしがあって、誰かの物語があるんだろうな。
そう思ったとき、ふと気づいた。
私、今、誰とも繋がっていない。
スマホは鞄の中。SNSも見ていない。誰にも居場所を伝えていない。でも、不安じゃなかった。むしろ、自由だった。
ひとりでいることの、静けさ。
それが、こんなにも心地いいなんて。
白い石の上に座り込んで、しばらくぼんやりしていた。
時計を見ない時間。何も考えない時間。ただ、風と光を感じている時間。
「縁結び」って、もしかしたら、誰かと結ばれることじゃなくて、自分と結ばれることなのかもしれない。
そんなことを、ぼんやり思った。
小さな商店街での、小さな事件
お寺を出て、また商店街に戻った。
お腹が空いていた。時計を見ると、もう二時を過ぎていた。
「お昼、まだやってるかな」
独り言を言いながら、店を探す。
レモン。
そういえば、生口島はレモンの産地だと聞いていた。看板にも、のぼりにも、「レモン」の文字がたくさん並んでいる。
小さな食堂を見つけた。
「お食事処 しおかぜ」という名前。引き戸を開けると、カランカランと鈴の音がした。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、おばさんが顔を出した。
エプロン姿で、笑顔がやさしい。
「あの、まだランチ、大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫よ。何がいい?」
メニューを見せてもらう。
海鮮丼、タコ天丼、レモンラーメン。どれも美味しそうで迷った。
「レモンラーメンって、どんな感じですか」
「ああ、それね。うちのレモン使ってるのよ。さっぱりしてて、これからの季節にいいわよ」
じゃあ、それでお願いします。
カウンターに座って待つ。
店内には私の他に、地元のおじいさんがひとり。新聞を読みながら、お茶を飲んでいた。
窓の外を見ると、猫が通り過ぎた。
三毛猫。のんびりとした足取りで、日陰を選んで歩いている。島の猫は、都会の猫より穏やかに見える。気のせいかもしれないけれど。
「はい、お待ちどうさま」
運ばれてきたレモンラーメンは、透明なスープに黄色いレモンが浮かんでいた。
湯気と一緒に、柑橘の香りが立ち上る。
一口、スープをすくって飲む。
あ、美味しい。
塩味のスープに、レモンの酸味がふわっと広がる。さっぱりしているのに、コクがある。麺も細めで、ちゅるちゅると食べやすい。
「美味しいです」
思わず声に出すと、おばさんが嬉しそうに笑った。
「そうでしょう。うちの畑のレモンなのよ。農薬使ってないから、皮ごと食べられるの」
食べながら、おばさんと話した。
島のこと、レモンのこと、観光客のこと。
「最近は若い子も来るようになってね。写真撮るのが好きな子たちが多いわ。でもね、写真撮るだけじゃなくて、ちゃんと島のこと見ていってほしいのよ」
おばさんの言葉に、少しドキッとした。
私も、写真を撮るために来たんじゃないかって。
「でも、あんたは違うわね。ちゃんと座って、ゆっくり食べてる。それでいいのよ」
そう言って、おばさんは笑った。
ラーメンを食べ終えて、お会計をする。
「ごちそうさまでした」と言うと、おばさんが小さな袋を差し出した。
「これ、持ってって。うちのレモン」
袋の中には、小ぶりのレモンが三つ入っていた。
「え、いいんですか」
「いいのよ。ひとり旅でしょ。お土産」
受け取って、お礼を言う。
袋を持つと、レモンの重さと、ほのかな香りが伝わってきた。
店を出るとき、おばさんが言った。
「また来てね。今度は誰かと一緒でもいいし、またひとりでもいいから」
夕暮れまでの、あてもない時間
食堂を出て、どうしようかと思った。
バスの時間まで、まだ二時間以上ある。
観光マップを広げてみる。
美術館、神社、展望台。いくつか見どころはあるけれど、どこかに急いで行きたい気分じゃなかった。
じゃあ、歩こう。
あてもなく、海沿いを歩いてみよう。
港の方へ向かう道は、静かだった。
車もほとんど通らない。民家の軒先に、洗濯物が干してある。どこかから、テレビの音が聞こえる。
生活の匂い。
観光地じゃない、人が暮らしている場所の空気。
海沿いの道に出た。
防波堤に座って、海を眺める。
波の音が、規則的に聞こえる。
ざざん、ざざん。
同じリズムで、何度も何度も。
スマホを取り出して、写真を撮ろうかと思ったけれど、やめた。
この景色は、写真に収めるものじゃない気がした。ただ、目に焼き付けておけばいい。
風が強くなってきた。
髪が顔にかかる。手で押さえながら、空を見上げる。雲が流れていく。速い。
ひとり旅って、こういう時間が一番好きかもしれない。
何もしない時間。誰とも話さない時間。ただ、そこにいるだけの時間。
東京にいると、いつも何かに追われている気がする。
仕事、予定、SNS、メッセージ。常に、誰かと繋がっていなきゃいけない気がして、スマホを手放せない。
でも、ここでは違う。
誰も私を知らないし、私も誰も知らない。それが、こんなにも楽だなんて。
防波堤に座ったまま、一時間くらいぼんやりしていた。
通りかかったおじいさんが「釣りでもするんかね」と声をかけてきたので、「いえ、ただ座ってるだけです」と答えたら、不思議そうな顔をされた。
でも、いいのだ。
ただ座っているだけでも、ちゃんと旅をしている。
小さな神社で、結んだこと
バスの時間が近づいてきた。
そろそろ港に戻ろうと思って、歩き始めた。
途中、小さな神社を見つけた。
「向上寺」と書いてある。地図には載っていない、小さな神社。
鳥居をくぐって、境内に入る。
誰もいない。静かだった。
手水舎で手を清めて、拝殿の前に立つ。
お賽銭を入れて、手を合わせる。
何をお願いしようか、考えた。
仕事のこと? 恋愛のこと? 家族のこと?
でも、どれもしっくりこなかった。
結局、お願いごとはしなかった。
ただ、「ありがとうございます」と心の中で言った。
今日、この島に来られたこと。
おばさんに優しくされたこと。
きれいな景色を見られたこと。
ひとりの時間を持てたこと。
そのすべてに、ありがとうって。
境内の隅に、小さな縁結びの木があった。
細い枝に、たくさんの赤い紐が結ばれている。おみくじを結ぶ場所なのかもしれない。
私も、何か結びたいなと思った。
でも、おみくじは持っていない。
ふと、ポケットにハンカチがあるのを思い出した。
白い、シンプルなハンカチ。
それを細く裂いて、枝に結んだ。
不格好な結び方だったけれど、ちゃんと結べた。
何と何を結んだのか、自分でもよくわからない。
でも、何かが繋がった気がした。過去と未来、自分と誰か、孤独と自由。
そんな、曖昧な縁。
帰りのバスで、考えたこと
バスに乗り込む。
行きと同じ路線。でも、窓の外の景色が違って見えた。
夕方の光が、海を照らしている。
オレンジ色に染まった水面が、きらきらと輝いていた。
橋を渡る。
また、境界線を越える。島から、本州へ。
でも、私の中には、まだ島の空気が残っている。
潮の匂い、レモンの香り、おばさんの笑顔、白い大理石の感触。
ひとり旅って、誰にも話さない思い出ができる。
SNSに投稿するわけでもなく、誰かに報告するわけでもなく、ただ自分の中にしまっておける記憶。
それが、宝物みたいに感じられた。
スマホを取り出して、久しぶりに電源を入れる。
いくつか通知が来ていたけれど、緊急のものはなかった。
メッセージアプリを開いて、母に連絡した。
「今日、生口島に行ってきたよ。レモンもらった。今度持っていくね」
短い文章。
でも、送信ボタンを押すのに、少し勇気がいった。
すぐに既読がついて、返信が来た。
「いいね。待ってる」
それだけ。
でも、それで十分だった。
縁は、結ぶものじゃなくて
尾道駅に着いた。
バスを降りると、街の音が一気に押し寄せてきた。車の音、人の声、店の明かり。
島とは、全然違う。
でも、私はもう、さっきまでの静けさを持っている。
駅のホームで電車を待ちながら、今日一日を振り返った。
縁結びの島だと聞いて来たけれど、実際に何かが結ばれたのかはわからない。
運命の人に出会ったわけでもないし、劇的な変化があったわけでもない。
ただ、小さな出会いがあった。
おじいさん、おばさん、猫、神社、海、風。
そして、自分自身との出会いもあった。
ひとりでいることを、怖がらなくていい。
誰かと繋がっていなくても、孤独じゃない。
静けさの中にいても、ちゃんと生きている。
そんなことを、体で理解できた気がした。
縁って、もしかしたら、結ぶものじゃないのかもしれない。
もともとそこにあって、ただ気づいていないだけなのかも。
自分と世界の縁。
自分と時間の縁。
自分と、まだ見ぬ誰かの縁。
それは、目に見えないし、形もない。
でも、確かに存在している。
電車が来た。
ドアが開いて、乗り込む。
窓際の席に座って、鞄からレモンを取り出した。
小さくて、少しいびつな形。でも、ずっしりと重くて、生命力を感じる。
これを、母に渡そう。
「レモン、もらったんだ」って、そこから話が始まるかもしれない。
それも、ひとつの縁の結び方なのかもしれない。
---
生口島での一日は、特別なことが起きたわけじゃない。
ただ、ゆっくりと時間が流れて、小さな出会いがあって、自分と向き合う時間があった。
それだけ。
でも、それが、今の私には必要だった。
ひとり旅は、寂しいものじゃない。
自分を見つめ直す、大切な時間なのだと思う。
そして、縁結びの島で学んだこと。
それは、誰かと結ばれることを願うより、まず自分と結ばれることの大切さだった。
自分を好きになること。
自分の時間を大切にすること。
自分の心の声を聞くこと。
そうやって、自分としっかり繋がっていれば、きっと他の誰かとも、自然に繋がっていけるのだと思う。
生口島の白い丘で、私は自分と出会い直した。
そして、小さな神社で、未来の自分と縁を結んだ。
それは、恋愛の縁じゃないかもしれない。
でも、もっと大きな、人生の縁なのかもしれない。
帰りの電車の窓に、自分の顔が映っている。
少しだけ、穏やかな表情をしていた。
また、ひとり旅に出よう。
次はどこに行こうか。
そんなことを考えながら、私は夜の街を走る電車に揺られていた。
手の中のレモンが、ほのかに香る。
それは、今日という日の証。
生口島という島の、やさしい記憶。
縁は、きっとこれからも続いていく。
目には見えないけれど、確かに存在する糸で、私と世界は繋がっている。
そう信じて、また明日を生きていこう。
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※本記事は、実際に現地を訪れた体験をもとに、
移動・過ごし方・感じたことを記録しています。



